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これまでの「店主のつぶやき」をあらため、アナログメディアに書いてきたものを収めています。 更新は少ないかと思いますが、バックナンバーを読まれた感想などもお寄せください。 2001年は、地元紙・「南海日々新聞」の「リレーエッセー・つむぎ随筆」に1年間(8回)連載の予定です。初回は2月15日。ここでも、同時掲載いたします。 |
つむぎ随筆21(リレーエッセー)2001年2月15日付
「回遊行動」 森本眞一郎
記憶は水にふちどられている。
夜明け前のインドのガンジス川。
ヒマラヤの聖なる雪どけ水とともに、ぼくもネパールから流れてきて、死と転生の街ベナレスの沐浴場(ガート)でたむろしていた。
ひと月ほどすると、父ににた老人が、早暁の対岸の砂州によく顕れた。
実家の神だなの上から目守(まぶ)っていた祖父(じゅう)の肖像だった。
背後に名瀬の永田墓地と高森山が揺れていた。
拝み山の杜と永田川の水で育ち、築港から立神を北へよぎってから、ぼくは太陽を十五周していた。
海の彼方にあるという"美しい日本の私"を"ディスカバージャパン"してみたかった。
火山灰や雪や地下鉄などだんだんな大和人たちの移ろいを尻目に、ぼくは、フーテン&ロームシャのまなざしで、北上の旅を積み重ねた。
やがて、オホーツクの流氷の上で知りあったキイチさんと礼文島へ向かう。
そこでは、先住民族のアイヌや、まつろわぬ蝦夷・隼人にもつながる、「南島」からきたぼく自身の出自とむきあうことになる。
「日本人」ちばぬぅかい?
北海道島と琉球諸島を往来しながら、玄海灘を渡った。
「自分たちの古層は大陸の内部じゃない。もっと南部の沿岸だ。馬の鞍より、舟の帆が先!」。
半島の学生たちの言説が、新鮮だった。
台湾島の自称「原住民族」の雰囲気も、アイヌや南島びととのえにしを感受させた。
やがて、東南アジアの水系をあまくま遡行してたら、インドだったのだ。
ところが、さらなる股旅の途中で、まれまれシマに戻ったら、元気だった父が急逝した。
納骨の時、傍の祖父の骨にもふれてみたら、サンゴののかけらのようだった。
以来、奄美大島に暮らしているが、なによりも驚いたことは、動物地理学でいう「東洋区」だ。
その境界線は東北がトカラの子宝島、東南がバリ島、西がインド、北がヒマラヤから華南の域である。
ぼくの"脱出衝動"から出発した回遊行動は、東洋区の周縁の巡礼だったのか。
秘められた潜在的なテリトリーを確認したかったのだろうか。
つぎは、中国南部を泳ごうとしていたのだから。
シマの水に二十年、そろそろ子どもたちの回遊の季節。
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